


発達障害の子どもさんの才能を伸ばすために必要な3つのこととは?

目次
わたしは4人男兄弟でした
2つ下の次男と、9つの下の四男の弟は障害を持って生まれてきました。
自閉スペクトラム症と重度の知的障害です。
ふたりとも、言葉による相互のコミュニケーションは取れません。
自分の意思表示はすることができますが、発する言葉はワンワードです。
排泄面では、おしっこはできますが、いまもおむつをしていて、トイレでうんちの排泄はできません。
家庭でも、養護学校(いまは特別支援学校)でも色々試みましたが、子どもの頃から排泄はうまくできないまま、大人になっています。
両親が亡くなり、わたしが面倒を見ることも考えましたが、いまは二人共同じ施設で世話をしていただいています。
そんな弟がいる家庭に育った、兄として感じたことをお伝えしたいと思いました。
発達障害の子どもさんがいると、正直、親はかかりっきりです。
かんしゃくをおこす、排泄処理、着替え、入浴、食事などなどあらゆる面で気を使います。
うちの母は、養護学校の送迎場所まで、子どもたちを公共の交通機関で送っていました。
何度か、わたしも一緒に移動したことがありますが、彼らはバスの中で大声で叫んだり、気に入らないことがあるとかんしゃくを起こしたりすることもありました。
それを母はなだめ、周りに謝りながら、毎日毎日続けていました。
上の弟が中学を卒業するまでの9年間。そして、彼の卒業後は、下の弟を7年間。その後、下の弟は通所の施設に7年以上通わせいましたので、約25年間。雨の日も、雪の日も送迎をしていました。
わたしが社会人になってからは、わたしが車で母と弟を乗せて送ったり、帰りには迎えに行ったりしていました。
わたしが就職するまでの22年間。ほとんど毎日、母や二人のことにかかりきりでした。父は休みの日には、二人のケアを手伝っていましたが、それ以外の日はすべて母が二人のケアをしていました。
そんな状況なので、わたしは親から、愛情をいっぱいに受けたという記憶があまりありません。一方で、そのおかげか、親からは勉強しなさいとか、片付けなさいとほとんど言われたことがなく、自分のやりたいように学生生活を過ごせていました。
ですが、やはりアラフィフの今になっても思うのです。「愛情をもっと受けたかった」と。そのせいかもしれませんが、なんとなく人に愛情や思いやりを示すのが得意ではありません。どうすればよいか、いまだに困惑してしまうことがあります。
周りからすれば、そうでもないのかもしれません。でも、人との接し方にいまでも自信が持てないと感じているのです。
ですので、発達障害を持つ親御さんにお伝えしたいです。
本当に大変だと思います。それどころでないと思っているかもしれません。でも、定型の兄弟がいるのなら、そのお子さんにも「全力で愛を与えてほしい」です。短い時間でもいいです。その子のための時間を、その子だけの時間を作ってあげて欲しいと思います。
わたしは5歳の誕生日の夜をいまだに鮮明に覚えています。
母なのか、父なのかは覚えていませんが、誕生日にケーキを買ってきてくれました。
そこに5本のろうそくを立て、火をつけ、部屋の電気が消えた時、ろうそくの灯りに浮かび上がったケーキと、部屋の中がいまだに忘れられません。
わたしは、12月生まれなので、もう北海道はストーブを焚いていました。当時、住んでいた家は、木造の古い家だったので、すきま風が入ってくるような家でした。
部屋の暗さと、部屋のどこからか、ひんやりした風の中、わたしは思いました。
「これからは、僕はひとりでいきていかなきゃならない」と心のなかで決意したことをはっきりと覚えています。
当時は、次男に障害があることはわたしも理解していました。母が一生懸命、世話をしているのも知っていました。
でも、一度も、母から、父から抱きしめられた記憶がないんです…。
だから、わたしは思ったんです。弟のために、母や父を困らせないために、自分がしっかりしないといけないと…。
わたしは幼稚園に通っていました。幼稚園では少なからず、問題行動があったようです。
かんしゃくを起こしたり、友だちをたたいたり、気に入らないことや、上手く行かないことがあると泣き叫んだりしたていたようです。
母と先生がよく話していたシーンを今でも覚えています。
幼稚園には母が公共のバスで送ってくれていましたが、その時、弟はどうしていたんだろう。それはあまり覚えていません。
でも、少しだけ、その送迎の時間は母と二人だったような気がしています。
また、もう少し小さい頃にも、かんしゃくを起こして、友だちの頭に石をぶつけてケガをさせたことがありました。わたしの住んでいるエリアでは、どちらかといえばいじめっ子だったと記憶しています。わたしが嫌がることを、何度もされ、何度も嫌な思いをしているうちに、いわゆる「キレた」んだと思います。
小学校では、おとなしい方でした。でも、一年生のときに、なにかのきっかけで友だちの手を自分のはさみで切ってしまったことがあります。衝動的な行動でした。原因は覚えていませんが、癇癪を起こしてしまったのかもしれません。
友だちの指が切れて、血がとめどなく流れていたことだけは鮮明に覚えています。
その件では、母が呼び出され、担任の先生と話していたのも覚えています。
でも、救いは、先生も親も、友だちもわたしを責めなかったことです。
高学年になる頃には、ある程度落ち着いてはいましたが、たまに嫌なことをされると突然「キレる」ことはありました。
それもこれも、いま思うと、「自分の生きたいように生きる」。じゃまはするな! というような気持ちが衝動的に出てきたように思います。
それが、親から愛情を感じられなかったことが直接の原因かはわかりません。わたしのもともと持っていたグレーゾーンの特性だったのかもしれません。
ですが、満足できるだけの愛情を受けていれば、5歳の誕生日に、「自分ひとりで生きていかなきゃならない」とは思わなかったと思います。少ない影響かもしれませんが、そう思わない人生はどうなっていたのかと、いまでも思うことはあります。
二人の障害者の弟がいると、家には友だちを呼ぶことはできません。いつも家は片付いていない状況でした。自分自身も片付けが苦手なので、それだけでも家に呼べる状況ではありませんでしたが、弟たちを友だちに見られるのが怖かった。
大学までの学生生活で、弟のことを話したのは、二人だけです。この二人なら話しても理解してくれると感じたから話をしました。二人とも、「大変だったな」と言ってくれたのは、わたしにとっては、少しだけ心が軽くなったのを覚えています。
両親が死んだ後、二人の弟の面倒を見なければならないと思っていたわたしは、異性との交際にも消極的でした。
一度、知人の紹介である女性を紹介してもらうという話が出たことがあります。
その時、わたしは、弟のことを手紙でその女性のご両親に伝えました。
その手紙を読んだご両親は、もちろんお断りの連絡をしてきました。
当然のことだと思いました。もし、自分が相手の親だったとしても同じことをしたと思います。ですので、攻める気持ちもありませんでした。ですが、心が傷ついたのも確かです。「一生、わたしは家庭をもつことはできないんだ」とその時思いました。
ですが、幸い、その後、理解のある女性とご両親と出会い、いまでは夫婦二人ではありますが、結婚もしてそれなりに幸せに暮らしています。というのも、二人の弟を世話してくださる施設があるからでもあります。もし、いま、二人の弟と同居していたら、いまとは全く違った生活をしていたと思います。
今となっては、弟たちに感謝しています。人を差別するような人間にはならなかったからです。困っている人は躊躇なく助ける大人になりました。そのせいで、助けすぎて自分が困ることもあったりしますが…。
思いやりの伝え方はよくわかりませんが、少しは心優しい大人になれたとも思っています(自分でいうのもなんですが)。
二人の発達障害+重度知的障害の子どもを抱えながら、親は親なりに一生懸命、わたしを育ててくれたとは思っています。行きたいという大学に行かせてくれました。
父は「お前の生きたいように生きろ」と言ってくれました。
中学生くらいまでは、その言葉が「お前には親であるわたしたちが、できることはもうない」と言われていたように感じました。でも、いま考えるとそうではなかったんだと思います。わたしを「信じてくれていた」と思います。
二人の弟、そして、定型のもうひとりの弟、両親がいたから、今の自分がいます。家族に心から感謝しています。
それでも思うこと
繰り返しになりますが、それでもやはり思うのは
もっと、愛されたかった。愛を感じたかった。
という思いです。
発達障害の子どもさんをかかえるということは、本当に大変なことです。兄弟という立場から見ても、親は大変だと思います。
ですが、愛を感じられないで過す、ほかの兄弟もつらいのです。
そして、おそらく、「つらい」と親には言えません。言ったら「親を困らせるから」。日常で、兄弟が親を困らせ、苦労させているのを間近に見ています。だから、本当はつらくても言えないんです。
わたしは小学校、中学校ではいじめられていました。でも親にはいいませんでした。わたしの場合、いじめっ子達に一人で向っていって喧嘩して、なんとかいじめられない状況を作ることができました。
小学校のときには、やり返したことで、学級会議にかけられたりもしました(親が知っていたかはわたしは知りません)。いじめられていたのに、わたしだけが悪者にさせられたように感じたのを覚えています。
だから、心からお伝えします。
少しの時間でもいいです。定型の兄弟のお子さんのために、時間を作って下さい。「いい子」だったら褒めてあげて下さい。いてくれることに感謝を伝えてあげて下さい。これは、二人の障害のある弟と暮らした、わたしからの心からのお願いです。
それからもう一つ
たくさん兄弟との、家族との思い出を残してあげて下さい。写真や映像で残してあげて下さい。わたしの家は写真を取る習慣がなかったので、まったく家族の写真が残っていません。大人になって思います。もっと家族での写真が欲しかったなと。
兄弟、家族の時間を写真や動画に残してあげて下さい。
きっと、その写真は定型の子どもさんの心にも何かしら影響を与えるものになります。思い出したくない思い出でも、きっと感謝できる思い出になっていると思います。今のわたしがそうですから…。
発達障害の子どもさんをかかえることは、大きな試練です。ですが、神様がいるのなら、きっとその試練を乗り越えられると認められたからこそ、いまの家族と出逢い、いまの家庭が与えられているんだと思います。みなさんの幸を心から願い。このコラムを閉じます。